伝燈院 赤坂浄苑 副住職 角田賢隆

副住職 角田賢隆

ご挨拶

心地よい秋風が吹く時節となりました。当苑関係者の皆さまにおかれましてはいかがお過ごしでしょうか。コロナウイルス感染拡大の脅威が続いておりますが、赤坂浄苑職員全員がワクチン接種を終えるなか、来月からは行動制限も段階的に解除されるような話題も出てくるなど、事態は少しずつ好転しているように感じています。

昨年の「JOUEN」十月号では曹洞宗の開祖である「道元禅師」についてご説明いたしましたが、今回は我が「伝燈院」の御開山(お寺をひらいた僧)であり、曹洞宗二大本山の一つでもあります「總持寺」を開かれた「瑩山禅師」についてお話いたします。(図一)

図一瑩山禅師は道元禅師から数えて曹洞宗四番目の祖でございます。道元禅師が亡くなられてから十五年後(一二六八年)、現在の福井県越前市にある豪族(地方の有力者)の長男として生まれます。観音信仰に熱心であった母親の影響を受け八歳の時に「永平寺」へ小僧さんとして入り、十三歳の時に永平寺二世である「懐奘禅師」の下出家得度し正式な僧侶となります。

十八歳のころより自己研鑽のため諸国の師を訪ね歩き、二十一歳のころ永平寺に戻ります。三十五歳で永平寺三世である「義介禅師」の後を継ぎ曹洞宗の古刹「大乗寺」(石川県金沢)二代目の住職となります。※大乗寺は俳優の本木雅弘が主演し、修行僧堂を描いた映画「ファンシイダンス」のロケ地としても有名です。

その後、四十六歳で能登(石川県羽咋市)に「永光寺」を開き、山内に開山堂(祖師方を祀るお堂)として「伝燈院」を建立いたします。五十四歳のとき現在の石川県輪島市にあった寺を譲り受け、寺院名を「總持寺」と改め大本山總持寺のはじまりとなるお寺を開きました。五十八歳のころ病のため「永光寺」に戻り亡くなります。

總持寺は明治三十一年火災で焼失したのをきっかけに現在の横浜市鶴見に移転いたしますが、再建された元の總持寺は總持寺祖院として今でも修行道場となっております。また、赤坂浄苑を維持運営いたします「伝燈院」は本院が石川県金沢にあり、まさに「永光寺」内の開山堂である「伝燈院」の名前をいただいて始まった歴史あるお寺でございます。

宗門開祖であります「道元禅師」が曹洞宗を日本に持ち帰り、修行道場として僧の育成や自身の鍛錬に重きを置き曹洞宗の基礎を作ったのに対し、「瑩山禅師」は世の人々を救済するため、その教えを老若男女問わず広めることに尽力いたしました。瑩山禅師の元からは数多くの優れた弟子が輩出され、曹洞宗が全国に広まるきっかけとなります。このように日本で曹洞宗をはじめられた祖が「道元禅師」であり、曹洞宗を全国で一万五千カ寺にも及ぶ大教団とならしめた祖が「瑩山禅師」なのです。故に宗門ではお二人が開かれた「永平寺」「總持寺」を二大本山とし、ご本尊の掛け軸は「一仏両祖」と称し、中央にお釈迦さま、向かって右に「道元禅師」、左に「瑩山禅師」が描かれます。(図二)

瑩山禅師は二十七歳のとき師匠である「義介禅師」の「平常心是道」(日常のあるがままが仏道である)という言葉を聞きお悟りをひらいたとされておりますが、その真意を次の言葉で言い表しました。

「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す。」(喫茶喫飯)

お茶が出ればお茶を飲み、ご飯が出ればご飯を食べる。と言葉だけ見れば当たり前のことなのですが、そこに余計な考えを入れずなりきって行ずるところに仏法があるのです。

裕福な時代となり、あれやこれやと余計なことに気ぜわしい現代でございます。物事一つ一つに集中し、当たり前な事も意識して丁寧に行ってください。それを続けられれば不安や迷いが入り込むすきがなくなり、心が整って今生きていることを幸せと感じられるのではないでしょうか。