伝燈院 赤坂浄苑 副住職 角田賢隆

副住職 角田賢隆

メディアや街中はお正月モード一色となり、皆様方におかれましてもおめでたい気持ちですごされていることとお喜び申し上げます。「もういくつ寝るとお正月~♪」の歌にも代表されるように古来よりお正月は日本人にとって待ち遠しいおめでたい行事でございます。

お正月とは各家庭に一年をお守りいただく「年神さま」をお迎えしおもてなしする儀式で、お越しいただく目印になるのが「門松」であり、不浄なものの侵入を防ぎ結解としての役割を果たすのが「しめ縄」でございます。伊勢神宮のご神体で有名な三種の神器である「八咫の鏡」を模し丸く作られた「鏡餅」は、まさしくお正月の期間「年神さま」の依り代となるご神体なのです。また、農耕民族であった日本人にとって「年神さま」はその年の豊作をもたらす神様でもあり、さらには自身の先祖が「年神さま」になり年の初めに山より下りてきて田畑を見守るという、祖霊信仰にそった先祖供養の一面もあるのです。

もう一つは昔の年齢の数え方である「数え年」という概念です。生まれた日(宿った日)を一歳とし一月一日が加齢の日となり、元旦を迎えるとすべての人が等しく一歳年を取るという考え方です。お正月はすべての人の誕生日でもあったわけです。
明治三十五年の「年齢計算ニ関スル法律」と昭和二十四年の「年齢のとなえ方に関する法律」と二度にわたる法律の施行により現在の「満年齢」は浸透していきます。

仏事の享年に「数え年」を使用していたのは法律の施行以前に誕生日という風習が希薄だったからなのですが、神事における厄払いや七五三に代表されるように古来から行われてきた行事は基本的に「数え年」で行われ現代に至るまで大切に受け継がれております。
(現在この「数え年」が日常的に使われている国はお隣の韓国だけです)

「数え年」の廃止は明治時代に旧暦から新暦へ改暦されたのがきっかけとして行われたわけですが、以前の日本では中国より伝来した旧暦を使用しておりました。「太陽太陰暦」といい、月の満ち欠け(29.5日間)を一か月とし(29ないし30日)一年が354日となる月を基準としたものです。しかし、地球は太陽を365.242日間かけて公転しますので、このままでは三年でひと月ほど四季にずれが生じてしまいます。そこで数年に一度「閏月」を入れ一年が十三か月ある年を作り調整したわけです。(英語でいう「month」を「月」と呼ぶのは旧暦の名残です)

現在使用しております「太陽暦」とは太陽の惑星である地球が太陽の周りを一周する周期である「太陽年」(365.242日)を一年として作られており、足りない0.242日分を修正する為、四年に一度の割合で「閏日」(二月二十九日)が設けられております。このようにできるだけ季節感を大事にし、ずれを抑えたのが世界標準である現代の暦なのです。(中国や韓国などでは今でも旧暦を大切にし旧暦の正月を「春節」と呼び正月よりも盛大に祝います)

現代の暦においても十二月三十一日を「大晦日」と呼びますが、「晦日」とは旧暦における月が欠ける最終日(ひと月の終わり)を指し、一年の最後の月が欠ける日を「大晦日」といったわけなので、月の満ち欠けを基準としない現代暦においては本当の意味では大晦日にはなっていなかったりします。

暦に関して現代まで続くものとして「暦注」というものがございます。暦注とは「六曜」などに代表されるように暦にその日の吉凶や方角・運勢を記載したものです。「仏滅」などはいかにも仏教の教えかと思われますが、元々は「物滅」で全てがリセットされ再スタートするにはいい日であったそうで、仏教とはなんの関係もないのです。「六曜」は中国から伝わったものだろうというぐらいで起源も出典もはっきりとしない迷信であり、そもそも現在使っております七曜(月曜~日曜)にも吉凶のいわれが存在するのに全然気にしないのも不思議な話です。かの福沢諭吉は「つまらぬ吉凶を信じる者は馬鹿者」とまで書き記しております。

「占い」や「迷信」を物事を決める基準として使用することを悪いとまでは言いませんが、お釈迦さまの教えで仏教の基本となるのは「縁起」でございます。簡単に説明しますと「縁起」とは、自身に起こるすべての事象は自身の行いにより起こっているという考え方で、いい行いはいい結果を生み、悪い行いは悪い結果を生むのです。

私はいつも風邪薬に例えてお話しいたします。薬は風邪の諸症状を抑える働きはありますが、結局は自身の免疫力によりウィルスを退治しなければ完治いたしません。それと同様に占いにより悪を避けることができても自身の努力無しに幸せになることはないのです。

ぜひ寺社仏閣にお参りされる際は、まず神仏やご先祖さまに今の自分が生きていること、守っていただいていることを感謝申し上げ、頑張って生きている姿を見せて差し上げてください。そうすれば神仏や先祖さまは頑張って努力しても追いつかなかった最後の一歩をそっと押してくださいます。信仰とはそのようなものであるべきだと私は考えます。