伝燈院 赤坂浄苑 副住職 角田賢隆

副住職 角田賢隆

お盆について

仏教が伝わる以前から日本では「お盆と正月」の時期にあの世からご先祖さまが戻ってきて家族と一緒に過ごす風習があり、奉公に出されていた小僧さんもこの時期だけは休みを与えられ実家に帰してもらえました。「盆と正月が一緒に来た」ということわざからもわかるように「お盆」とはめでたい日であり、ご先祖さまを大切にしてきたわけでございます。また「お盆」という言葉の語源はご先祖さまに供える供物を盛る「器」が始まりで、その後供養すること自体を「お盆」と呼ぶようになり、ひいては供養する特定の時期を「お盆」と呼ぶようになったという説があります。

仏教におけるお盆は「盂蘭盆」と申します。「うらぼん」というと「表」があるのと思われますがそうではなく「ウランバナ」というサンスクリット語に漢字をあてたものでございます。訳しますと「逆さづり」という意味でございます。ご供養からはかけ離れた言葉ですが、これは「盂蘭盆経」というお経からきております。

お釈迦様の弟子で神通力に優れた「目連尊者」という方がおられました。亡き母があの世でどのようにすごしているかを得意の神通力を使って見ましたところ地獄(餓鬼界)で「逆さづり」にあい苦しんでいる姿が見えました。他者に食べ物を分け与えず自分の子供を優先したという業により地獄に落ちたわけでございますが、目連尊者は何とか救いたいとの思いでお釈迦さまに相談します。インドの修行僧は雨季(七月~九月)の間ひとところに集まり修行しておりましたが、ちょうど雨季が明け修行もひと段落する時期(旧暦の七月十五日ごろ)でございました。お釈迦さまはその修行が明ける修行僧たちに「食べ物なり飲み物なりの施しをしなさい、その功徳が回り巡って母親の元まで届き救われるでしょう」と諭します。他者の幸せを優先することが大きな力となることを知った目連尊者は、修行僧たちに心からの施しを行いその後お母さんもめでたく救われます。この「盂蘭盆経」と雨季が明ける時期・そして日本に昔からある「先祖供養」が融合し現在の「お盆」となったわけでございます。

修行僧堂ではお昼ご飯の際に必ず「生飯」という儀式を行います。食べる前に一人一人が七粒ほどのお米をとりわけ、それを係りの者が集めます。後程外に備え付けた台に置き野鳥に食べさせるのですが、これは餓鬼界に落ちた哀れな亡者に施すため行うものです。お盆の時期にお寺で行う法要はこの「餓鬼供養」で「施餓鬼」といい他者のための幸せを願いそこから生まれる大きな力でご先祖さまをご供養しているのです。

お盆の準備についてですが、これは難しく考える必要はございません。ご先祖さまを迎えることが第一ですので、今まで受け継いでやってきたやり方でご供養していただくのがよろしいかと思います。

盆棚はご先祖さまを祀る台であり、仏壇をあちらの世界とし盆棚を私たちのいる世界と見立てています。ですからお盆期間中お位牌を仏壇から盆棚に出して供養するわけです。お気持ちの問題ですので盆棚を準備するスペースがないようであれば簡易なテーブルでも仏壇のままでも構いません。ですが、特にお盆の時期は身近な先祖さまだけでなく古い先祖さままで思いを馳せご供養いただき、できましたら昔ながらのお供物(砂糖菓子など)もお供えください。

キュウリとナスで作る精霊馬や精霊牛は民族風習から来たもので、馬に乗り早く来てもらい牛に供物をたくさん積んで戻っていただくという先祖を敬う思いからきております。

同じく迎え火や送り火は帰って来るご先祖さまの足元を照らすために始まったものでございますが、現代において外が真っ暗ということはありませんので集合住宅などの家庭環境で危険を伴う場合は無理に行わなくて大丈夫です。

また提灯も同じ意味を持ち、特に新盆に用意する白い提灯は初めて戻ってくる仏様に目印としていただくものです。できればご用意いただき軒先にでもつるしてください。 「水の子」というナスやキュウリをさいの目切りにして洗ったお米と混ぜたものや「ミソハギ」と水などは餓鬼に施すものでございます。常に飢えと渇きに苦しみ喉の細い餓鬼に食べさせるため細かく切りお水をお供えします。 地方によっては盆棚にそうめんをつるしたり笹の葉で囲ったりするところもございますが、餓鬼が食べやすいものや、笹の物陰に隠れながら供物をとれるようになど餓鬼に対する配慮の一つだと思われます。

餓鬼供養はお寺でも行いますのでわかりづらいようであれば省いていただいても結構です。

「お花や提灯を飾りご先祖さまに対するお供物をたくさん供える」どんな準備をしたらいいのかと悩まれています方はそれで十分でございます。そのうえご理解いただけるようであれば餓鬼供養も行ってください。 仏教の根本は「布施」であり他者に対する施しでございます。「情けは人の為ならず」のことわざにもあるように他者への施しは巡り巡って自分に返ってくるものです。また餓鬼のあさましさは自身の一部であるとも説きます。哀れな餓鬼を含むすべてに慈悲の心を向けまっとうに生きるからこそご先祖さまが安心されるわけでございます。いいことをすればいいことで帰ってくる。 悪いことをすれば悪い結果で帰ってくる。できましたら餓鬼供養を通じてそのようなことも感じ取っていただき、次の世代に受け継いでいっていただければ幸いでございます。